速記の維持  

2009年12月24日(木)

 速記を捨てても速記録を作り続けることができるのか。
 テレビ放送の入る会議というのは、限られている。
 会議室の4方にリモコンテレビが配置され、発言者の1人に1本のマイクが配 置され、会議の模様がテレビ中継されて、テレビ中継された録画が速記者のパソ コンに自動配信されるというようなケースはまれである。
 どこかで歯車が合わなければ、うまくいかない。
 速記録の作成というのは、もともとデリケートで難しい仕事である。
 最初の80年は、速記技術と速記者の頭で、こなしてきた。
 ここ40年は、速記技術と、速記者の頭と、録音の力でこなしてきた。
 今、速記を捨てて、録画とパソコンだけを使って会議録を作る試みがされてい る。
 1年たって、特に問題がないように見える。
 ただ、携わっているのが、すべて速記者であり、本当に速記を捨てても速記録 を作り続けることができるかどうかは、よくわからない。
 就職難とはいえ、こういう地味で厳しい仕事を好んでしたいと思う有能な人が 今後も集まり続けるかどうかは、疑問である。
 速記者は、格好のいい職業の1つだった。
 速記というものが、魅力的な技術であるということが1つ。
 恵まれた職場環境の中、日本を代表する人たちの前に出て仕事ができるという ことが1つ。
 スポットライトを浴びることのできる格好いい職業の1つだった。
 1日じゅうパソコンの前に座って、配信されてくる録画から文章を起こす仕事 になっても、それに憧れて有能な人材が集まってくるのだろうか。
 少なくとも、衆参速記者養成所がなくなって、国会速記者という職業を選択す ることができなくなった。
 なりたくても新規にはなれない職業になってしまった。
 速記を書きたくても、書けなくなってしまった。
 これから、新規に有能な担い手が育つかどうかが問題だ。
 議場に出て何度も何度も速記を書くうちに、議員の顔や名前や特徴を覚えてい く。
 資料の入手や疑問点の解消や時刻その他の確認もしなければならない。
 反訳の仕方がどう変わろうとも、現場の速記は欠かすべきではないと思う。
 現場の速記を続けなければならないとするならば、速記者の養成も継続しなけ ればならない。
 音声は、一瞬にして消える。生の音声を聞いて、その場で、一瞬にして消える 音声を同時に文字化していくのが速記であり、訓練された速記者の頭が必要な仕 事である。
 速記者の過去の採用状況を見ると、1人しか採らなかったり、何十人も採った り、一貫性がない。時のリーダーの考え方で採用状況が大きく変わる。
 今後どう変わっていくのかは、さっぱりわからない。
 速記者は、1年半ぐらいで1級に合格することができる。
 議場に出て、速記できるようになるのに、2年半ぐらいかかる。
 流れが変われば、増員はまた可能である。
 速記者を育てるための日本速記協会は、どうなるのだろう。
 本気か冗談かよくわからないが、このままいくと、あと4年で日本速記協会も おしまいになるという声もあった。
 一度なくしたものを再生するのは容易ではない。
 維持できるものならば、維持していかなければならない。
 新規事業の展開に期待がかかる。
 速記の需要は、国会だけではない。
埼玉の速記兄ちゃん