速記能力と原稿の質  

2010年 1月10日(日)

 速記者である以上、何が起こるかわからないので、1日10分の速記の練 習は続けたいと思う。自衛隊員が、戦争がなくても、有事に備えて射撃訓練をし ているのと同じである。あるいは、消防職員が火事に備えて消防訓練をしている のと同じである。
 録音・録画に失敗があった場合、あるいは録音・録画が不十分なものであった 場合、誰がその会議録に対して責任を持てるのだろうか。
 速記者が速記をとっていれば、その速記録は速記を担当した速記者と発言者が 責任を持つことになるのだが、速記しないで速記録にミスや欠落が出たとき、誰 が責任を持てるのだろうか。
 一生懸命速記をとり、きちんと録音をとっていても、完璧なものを作るのは難 しいのに、速記を省略して一体誰がその責任を持てると言うのだろう。
 一瞬にして消える音声は、何らかの形で同時に保存する必要がある。
 速記、録音、音声認識などの方法があるが、人間の目と耳と頭を通す速記が一 番安心できる。どんな状況でも、それなりに対応することができるからである。 特に、2年半にわたる訓練を受けて選ばれた速記者なら、任せて安心である。
 実は、かなり優秀な人でも、若手のばりばりでも、かなりのベテランでも、完 全に書けるときは、何十回に1回くらいなものなのである。1回、1回が真剣勝 負なのである。
 もちろん、速記、録音・録画、音声認識の3つの方法をうまく使っていくのが 一番賢いやり方であって、何かを取って何かを捨てるというような方法は、良く ない。
 なぜならば、速記も録音も録画も音声認識も完全なものは何もないからである。 お互いに補完し合って完成度を高めてこそ、信用に足るものができるのである。 使えるものをすべて使って万全を期するのが正しい道である。
 きちんと速記できる人の原稿は、原稿もやっぱりきちんとしている。
 速記がきちんと書けない人の原稿は、やっぱり原稿もボロボロである。
 録音を用いれば、その格差は縮まるだろうが、やっぱり大きな差が出るだろう。
 第一、速記も書けない人が速記録を作りたいなどと思うはずがない。
 思うとしたら、それは、生活のために、命令のために、やむを得ずということ だろう。
 速記能力と原稿の質は、ほぼ比例すると言って間違いない。
 速記の書けない人に速記録の作成を任せたとき、その精神的な重圧は計り知れ ない。
 2年半も訓練を受けた上、何年も何十年も速記実務をやっていても重圧を感じ るのに、速記の訓練を何も受けない人が、平然とやっていけるわけがない。安易 な覚悟でできる仕事ではない。
 歌だって、人前で堂々と落ち着いて歌うためには、相当な練習が必要である。
 歌い方を覚え、歌詞を覚え、表情も豊かに歌うためには、かなりの練習が必要 である。
 手振りや踊りまでもきちんとやるとなると、やっぱり、プロしかできないとい うことになるだろう。高額な衣装を着てとなれば、なおのことである。
埼玉の速記兄ちゃん