さきほど下記のように述べました。
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符号速記においては何語のものでも、「頻出音を良線で、類字音を類似線で」表すと
書きやすく読みやすいものができるという原理原則があります。
グレッグ式や日本のV式なども、もちろん、その原則にかなった符号の構成と
なっています。
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これに補足説明を加えます。
50音で、ア列とオ列を同じものでどちらかを2倍程度の長さとし、
イ列とエ列も同様にすると、同じ行のなかでは、類似音類似線の原則は
ある程度達成されます。
我が国ではそういう方式は多いです。
しかし、その構成では、同じ列で違う行の音どうしの類似性がかなり悪くなってきます。
それがSVSDにすると、それもけっこう似てくるのです。
では、日本語の速記方式において、末尾小円はどのように利用するのが賢明なのでしょうか。
それを濁音表記に使うと、清濁のない音には長音や拗長音などに利用することになります。(石村式のリュウ、リョウ、ショウ、ノウなど)
そうなると、方式としての整合性という観点でもあまりこのましいものとは思えませんし、たとえば、石村式でハグレと書いた場合に、そのグがスピードのために少し
丸くなってしまって、ハリューレとまちがえて読んでしまった、ということも
おこり得るわけです。
また、義捐金、のギが丸みを帯びると、ユウエンキンと読めます。
これでは内言(頭の中での言葉)での音から正しい語彙を想起することが
難しくまります。
しかし、これがたとえば、「末尾小円をは、どの線に付く場合でも、字音の2拍め
の音であるイかウを表す」とすれば、書いた線が少し変形しても、
類似音で読めるので、正しい言葉を想起しやすいというメリットが出てきます。
方式の基本構成での整合性と、「類似音類似線」の原則からして、
私は末尾小円を濁音表示に用いるのは、上手な方法ではないと思うのです。
(参考)
符号速記においては何語のものでも、「頻出音を良線で、類字音を類似線で」表すと
書きやすく読みやすいものができるという原理原則があります。
グレッグ式や日本のV式なども、もちろん、その原則にかなった符号の構成と
なっています。
頻出音を良線で書くと書きやすくなり、類似音を類似線で書くと
読みかえしがしやすくなるのです。
そして、その二つの原則を日本語の基本文字50音で極力達成するためには、SVSD(同じ母音を含む音は同じ方向の線とする)が最上なのです。
これなら小谷さんの「発明」と言っても差し支えないかもしれません。
私はV式をもって日本語の符号速記の発達史の到達点だと見なしています。
濁音を末尾小円で書くことの長短をまとめてみます。
1.速度性(書きやすさ)について
語末に濁音が来た場合には、速度は低下。
語中の場合には速度がやや上がることもあれば、かわらないことも
あれば、落ちることもある。
(たとえば、石村式で「さえ」よりも「ざえ」の方が速度は確実に落ちる。)
ゆえに、速度としては、総合的には濁音末尾小円は「やや不利」と言えよう。
2.読みやすさと覚えやすさ
加点や濃線よりも読みやすいが、その効果は主として字音語であらわれる。
和語ではもともと濁音や半濁音の概念が無く表記に必要もなかった。
そうでなければ、濁音や半濁音のかなも作られたはずなのである。
和語では速記符号を濁音を用いずに書いてもほとんどうまく読める。
たとえば、演歌系の歌を清音ばかりで書いてみれば、それがうそでないことが
よくわかるだろう。(演歌には字音語は大変少ない)
いいですか。ここからが肝心なところですよ。
しかし、濁音表記の効果が出る字音においては、1拍の音は少なく、2拍の音が
ほとんどである。
その場合、濁音を末尾小円とすると、清音のインツクキ長音とは別に
濁音のそれを設けないといけなくなってしまう。
だから濁音表示が有効になる語彙の大半をしめるところの字音の2拍音を、清音とは
別にまた設定しておぼえないといけなくなるという、末尾小円による濁音の
表示方法は、少なくとも、プロ向き専用ではない、個人利用をも考慮に入れた
「習得しやすい(覚えやすい)」速記方式としては上手なやりかたではないと思う。
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幹事さん、反論があれば、ご遠慮なくお聞かせください。
なお、私は、私の恩師である石村先生を人間的には尊敬していますが、それと、
方式論とは区別しています。
ご理解ください。
覆面で特定の人を非難するという、非常識な恥ずかしいことをされたのは
市井の速記びとさん、あなたの方です。
常識の通用しない人には、何を言ってもムダですね。時間がもったいないので、これを最後の発言とします。たかひろ氏の名を惜しみます。
さきほど例に挙げた「紛らわしいもの」のうち
一部を訂正します。
「費用」と「票」を同記としましたが、これは違いました。
「日吉」と「表紙、拍子」が同記でした。
また「利用、理容」と「量、寮」が同記としましたが、これも
違っており、「りよ」と「りょう」が同じ書き方ですから
「鳥より豚」と書くと「と料理豚」?と読めてしまうわけです。
とにかく、初級のうちは、違う音韻を同じ書き方で書くこと、
すなわち、一つの書き方をふたとおりに読み分けさせるのは
望ましくないと思います。
幹事さんに
中村式の拗音と拗長音について質問をいたします。
★基本文字の組み合わせによる拗音、拗長音の書き表し方★
シャ=し+あ シュ=し+う ショ=し+お
ジャ=じ+あ ジュ=じ+う ジョ=じ+お
キャ=き+あ キュ=き+う キョ=き+お
ギャ=ぎ+あ ギュ=ぎ+う ギョ=ぎ+お
チャ=ち+あ チュ=ち+う チョ=ち+お
ニャ=に+あ ニュ=に+う ニョ=に+お
ヒャ=ひ+あ ヒュ=ひ+う ヒョ=ひ+お
ビャ=び+あ ビュ=び+う ビョ=び+お
ピャ=ぴ+あ ピュ=ぴ+う ピョ=ぴ+お
ミャ=み+あ ミュ=み+う ミョ=み+お
リャ=り+あ リュ=り+う リョ=り+お
シャー=し+や シュウ=し+ゆ ショウ=し+よ
ジャー=じ+や ジュウ=じ+ゆ ジョウ=じ+よ
キャー=き+や キュウ=き+ゆ キョウ=き+よ
ギャー=ぎ+や ギュウ=ぎ+ゆ ギョウ=ぎ+よ
チャー=ち+や チュウ=ち+ゆ チョウ=ち+よ
ニャー=に+や ニュウ=に+ゆ ニョウ=に+よ
ヒャー=ひ+や ヒュウ=ひ+ゆ ヒョウ=ひ+よ
ビャー=び+や ビュウ=び+ゆ ビョウ=び+よ
ピャー=ぴ+や ピュウ=ぴ+ゆ ピョウ=ぴ+よ
ミャー=み+や ミュウ=み+ゆ ミョウ=み+よ
リャー=り+や リュウ=り+ゆ リョウ=り+よ
+++++++++++++++++++++++
(1)中村式において、拗音と拗長音は、上記は初級における書き方であり、この他にも、中高速度になると別の書き方があると思いますが、その書き方は頻度の高いものだけに設定されているのですか?
(2)そうであっても、あるいは、すべてにわたってまた別の書き方になるのであっても、一度覚えた書き方をまた別の形に覚えなおさなければならないのは二度手間で、どうかと思いますが、いかがでしょうか。
(3)たとえば、「塩」と「書、署」、「事案」と「ジャン」、「保持を」と「補助」、
「制御」と「正義を」、「治安」と「ちゃん」、「拙著」と「設置を」、
「如意棒」と「におい棒」、「考慮」と「氷を」、「市よりも」と「勝利も」、
「寄与」と「今日、京、興」、「治癒」と「注、中など」、「八千代」と「野鳥」
「費用」と「票」、「見よ」と「妙」、「利用、理容」と「量、寮」
こういう「音韻が違うものどうし」が同記になってしまって、紛らわしいのではない でしょうか。
幹事さん、
ボランティアの中に「特技ボランティア」という用語があるんです。
特定の知識や技術を、ある一定以上に保っている個人や集団が行うボランティアのこと。善意と時間があれば、だれでも参加が可能という種類のボランティアと異なるため、常時人員や水準を保っておくことが難しいという面がある。
出典:生涯学習用語集
幹事さんは、特技ボランティアに該当しますので、速記の「指導者」「講師」でも、問題がないんですよ。
幹事さんに
クラブの会計報告はしていないとのこと、
一ヶ月分前もって1000円払って、毎週は出席しなかった人の分の
余ったお金はどうなるのかは分かりませんが、ま、いいでしょう。
そういう使い方なら1万人の会員でも、儲けはないと思いますけど・・・・・・・
なお、「速記の書き方」というサイトにクラブ員の募集があり、
《会員を募集しています。初心者には「あいうえお」から教えます。》
としてあり、その筆者名は「埼玉の速記兄ちゃん」ですよね。
すなわち、あいうえおから「教える」人はあなたですよね。
その人をあなたが幹事と呼ぼうとなんと呼ぼうと、
世間では「指導者」「先生」あるいは「講師」と言います。
覚えておいてください。
教えていることによる収入がないのなら、「私は講師ではない」などと
こだわる必要は何もないんじゃないですか。
現にあなたも、これまでに多くの人たちに自分の方式を指導してきました、
とおっしゃっていませんでしたか?
「生涯学習」
生涯を通じて、人間的、社会的、職業的発達のために行われる学習のことをいう。生涯学習と生涯教育はよく混同して使われるが、中央教育審議会答申『生涯教育について』(昭和56年)では、これらを次のように区別している。「今日、変化の激しい社会にあって人々は、自己の充実・啓発や生活向上のため、適切かつ豊かな学習の機会を求めている。これらの学習は、各人が自発的意思に基づいて行うことを基本とするものであり、必要に応じ、自己に適した手段・方法は、これを自ら選んで、生涯を通じて行うものである。その意味では、これを生涯学習と呼ぶにふさわしい。この生涯学習のために、自ら学習する意欲と能力を養い、社会のさまざまな教育機能を相互の関連性を考慮しつつ総合的に整備・充実しようとするのが生涯教育の考え方である」。なお、臨時教育審議会の答申では、学習者の観点に立って教育の見直しを行うということから、生涯教育という言葉が全て排され、生涯学習という言葉のみが使われた。
→生涯教育。
「生涯教育における「統合」の概念」
生涯教育は lifelong education の訳語であるが、より正確には、lifelong integrated education と言われる。つまり、生涯教育というのは、「生涯にわたって統合された(integrated)教育」である。この語から推察されるように、生涯教育というのは、単に生涯にわたって教育が継続されるということにとどまらず、「統合」されていなければならないということになる。ユネスコにおいてラングラン、P.は、「統合」には垂直的統合と水平的統合とがあると主張した。垂直的統合は、生まれてから死ぬまでの生涯の各時期における教育を関連づけることを意味している。(時間的統合)。それに対して、水平的統合というのは、あらゆる教育機関や教育機会を関連づけることである(空間的統合)。垂直的統合を図るための基本原理としては、発達課題が重要だと考えられている。発達課題の概念を考えたのは、シカゴ大学教授ハヴィガースト、R.J.である。彼は胎児の身体の各部分の形成、発育に一定の決まった順序があることにヒントを得て、誕生後にも、各発達段階にはそれに対応した発達課題があると設定した。ここで重要なことは、単に幼児期、児童期、青年期にとどまらず、壮年初期、中年期、老年期というように、人間の生涯にわたっての発達課題が上げられていることである。このことは発達がある一定の年齢段階で止まってしまうのではなく、学習を続けることによって一生続くものであることを示唆している。このような生涯にわたる各時期の発達課題を順序を追って達成していくのが垂直的統合である。一方、現代社会においては、学校を初めとして教育や学習のための制度、機会、手段などが多様に発達しつつある。知識、技術、能力などの獲得において、これらの有機的な連携を図ろうというのが水平的統合である。
「ボランティア」
志願者、有志。ボランティアの語源は、ラテン語の volo である。volo は自分の意思で、あることを行うという意味であって、これから派生して「自分の自由意思で働く人」をボランティアと呼ぶようになったという。このことからまず強調されるべきことは「自主性」ということであって、他から強制されて行うのではなく、自分の意思で行うということがボランティアであることの条件と言えよう。一般的に、自分の意思で、社会福祉や教育などの分野で労力や技術を、報酬を期待することなく提供する人をいう。かつては、豊かな生活をする人達の慈善活動や特別な能力持った人の活動などに、限定された活動と捉えられがちであったか、現在では、全ての人々が日常的に行い、生きがいにつながる活動であると理解されるようになった。
→ボランティア精神。
「ボランティア精神」
無報酬性、自発性、博愛性、自己提供、継続性などの特徴によつて性格づけられる奉仕活動を進んで行う精神のこと。この精神を重視して、ボランティア活動は、国家や地方自治体が提唱するよりも、自発性を持った市民が率先して行う方がよいとする考え方がある。例えば、アメリカの慈善組織協会(COS)の運動にはこうした思想が強くあらわれている。我が国では、このような運動は必ずしも熟しているとは言えず、今後人々の間にボランティア精神が育つような土壌づくりが望まれる。
出典:文部科学省認定社会通信教育 生涯学習指導者養成講座 生涯学習ボランティアコース「生涯学習用語集」(財団法人実務教育研究所)
質問3
幹事さんは、「生涯教育」と「生涯学習」のどちらで実践されていますか。
質問4
幹事さんは「ボランティア」及び「ボランティア精神」に該当しておりますか。